【第1回】坂井忠男さん

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私が坂井さんのことを知ったのは、インンタビューをする、ほんの数日前のことだった。知り合いの話で「写真を撮るのに日本中を車でかけずり回っている、パワフルな94歳(※2010年当時)の方がいる」というのを聞き、すぐにアポイントを取った。直感的に、第一回にぴったりな方だな、と思ったからだ。

そして実際お話を聴くと、それは確信に変わった。実際お会いするまでは「まあ、元気な94歳っていってもこれくらいだろう」と推し量っていた。だが、僕の考えは見事に打ち崩された。

そんな坂井忠男さんのインンタビューです。

・聞き手:櫻井 洋次
・写真:井口 清/櫻井 洋次

−−−本日は突然のアポイントにも関わらず、快諾頂きありがとうございます!
坂井「いえいえ、宜しくお願いします。」
−−−こちらこそ、宜しくお願い致します。

五回の転校と言葉の壁
−−−ご出身は福岡だそうですね。
坂井「いまの北九州市八幡区になるのかな?父が鉄筋コンクリート作業の下請けをやっていて全国をまわるんですが、当時は単身赴任なんてことはあまりなかったから、家族全員ついて回ってました。だから小学校のときだけで、5回も転校させられた」
−−−大変ですね。
坂井「そうなんだよ。福岡から愛知、青森まで行ったんだけど、青森だけは津軽弁が全然わからなくて苦労した。当時はテレビなんかもちろんないし、ラジオだって珍しい時代だからね。言葉はその土地土地のを学ばなければコミュニケーションさえ取れないんだ。」
−−−まさに異文化コミュニケーションですね。
坂井「転校前は僕はわりと成績がよかったんだけど、青森では全くダメだった。先生が不思議に思って『前の学校ではこんなによかったのに・・・』って。だって授業を聴くのですら難儀してたんだもの(笑)でも、後半は慣れて津軽弁もわかるようになった。子供だから順応性が高かったんだろうね」
−−−それでは東京には、いつ頃からですか?
坂井「中学の時から。昔の府立三中、今の両国高校に通ってて、そのあと日大工学部に進学した。お茶の水キャンパスだったんだけど、いまでもあの辺に主婦の友社ってある?」
−−−ええ、確かいまでもあると思います。

太平洋戦争
坂井「大学に進学したのは、もちろん勉強のこともあるけど、当時は徴兵制だったから、大学行かないとすぐに兵役検査を受けに行かなきゃいけなかったから、っていう意味もあったんだ。でも、まあ卒業したら兵役検査受けなければならない。その当時、僕はそんなにがたいがいいわけじゃなかったし、目も悪かったから、基準で言うと『丙種』の判定だった。甲乙丙の丙ね。でも東京だと、いわゆる都会育ちのもやしっ子が多いから『丙種』でも招集される確立が高かったんだ。」
−−−いわゆる「赤紙」ですね。
坂井「そう。だから僕は、兵役検査を東京ではせずに、わざわざ鳥栖(佐賀県)までいって受けたんだ。故郷っていうのもあるけど、地方のほうが体格のいい人が多いから、丙種は招集される順番が遅かったんだ。検査だけおわったら東京に戻って日本無線に就職した。吉祥寺にある軍需工場で通信機を作ってた。」
−−−戦時中はずっと東京だったのですね。
坂井「そう。戦況が酷くなってきてからは丙種でもどんどん招集されるようになったんだけど、運良く工場で勤務が続けられた。3月10日(1945年)の東京大空襲のときは工場の屋上に上がって見ていたけれど、それ以外、なにもできなかった。無力さを感じた。」
−−−10万人以上が亡くなったともいわれてますから、凄惨な現場だったのでしょうね・・・。
坂井「でも、残ったもの集めてリヤカーで運んだ。それでも生きて行かなきゃならないし。皆そうしてた。」

戦後〜会社設立
−−−そして、戦後を迎え、お仕事は引き続き工場で働けたのですか?
坂井「もちろん軍需工場だから、仕事は無くなったよ。だから、自分で会社を設立したんだ。」
−−−おいくつぐらいの時ですか?
坂井「30代半ばくらいかな。やっぱり無線製造の会社。名前もカッコよく『研究所』って付けてね。『坂井無線研究所』。船の方向探知機を主に作ってた。今だったらレーダーだろうけど」
−−−魚群探知機とかも?
坂井「いや、魚群探知機っていうのも、ちょっとは考えたんだけど、大きい会社がどんどん出てきてたから、そこまでは手を出さなかった。」
−−−どれくらいの人数でお仕事されていたのですか?
坂井「えーと、一番多いときで20人くらいかな?70歳まで勤めた。ああ、でも経営は大変だったけど、あの時厚生年金を払い続けてよかった、って今思ってる(笑)」
−−−なるほど(笑)
坂井「昔は会社設立するのに5人必要だったけど、今違うんだよね?」
−−−今は一人からできます。僕も去年一人で立ち上げましたよ。
坂井「ほんとに?今は一人でいいんだ?。それはいいね!」

結婚〜惜別
−−−ご結婚は?
坂井「27の時。奥さんは9歳違いだから18だったのかな。でも時代が時代だったから新婚旅行もなくて、二人で網代に行ったぐらいだった。9歳も離れてたから、自分が奥さんに看取ってもらえると思ってたんだけど、結果的に逆になってしまった。」
−−−急だったのですか?
坂井「まあ、急と言えばそうかもしれない。晩年は認知症を煩っていたから2〜3年くらい介護はした。徘徊することもあったんだけど、自宅の電話番号だけは不思議と覚えていて、交番からよく連絡してもらった。最期はすっと亡くなった。77歳。敗血症だった。」
−−−今はお一人で暮らしているのですか?
坂井「そう。子供は地方にいるし、最近まで東京に進学した孫と暮らしてたんだけど、一人は結婚してもう一人は外に出した。生活時間が合わないとかいろいろあるしね。炊事もするよ。でも最近は食べなくなったな。でも酒は飲む(笑)」

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カメラ!カメラ!カメラ!
−−−写真はいつから撮られてるのですか?
坂井「中学生のときから。当時は押し入れを暗室にして現像してたよ。モノクロだったけど。もう80年もやってるけど、巧くはならないね。自分では観光写真って呼んでる(笑)」
−−−今もフィルムですか?
坂井「ここ3〜4年はデジタル。その為にパソコンも始めた」
−−−90になってからですか!もともと理工系だったのでパソコンも得意だったとかではないんですね
坂井「あー、今のIT用語は全然わからない。1から覚えてる。
(僕のパソコンを見て)あ、それMACだ。OSは?」
−−−すっ、Snowleopardですっ!
坂井「じゃあ最新だね。僕のiMacはまだTigerだよ。」
−−−Macユーザーなんですか?
坂井「メインはwinのノート。持ち運べるように。写真の上映会するんだよ。プロジェクター使って」
−−−じゃあ、PCはもうバリバリですね。新卒とかより出来そうですね(笑)

Driving with My Car
−−−車も乗られるそうですね。免許はいつ頃取られたのですか?
坂井「戦後だね。その前は車持つっていう時代でもなかった。」
−−−北海道や九州までもご自身の運転で行かれるとか伺いましたが?
坂井「誰から聞いたの(笑)そうだね、事実です。北海道へは大洗からフェリーで行って、道内一周して、帰りは東北道で帰ってきた」
−−−すごいですね・・・。最近ですか?
坂井「新年明けたから、えーと、一昨年。」
−−−まじですか!九州にも行かれたとか。
坂井「あー、それも事実(笑)」
−−−さすがに九州だと、途中1泊とかされるんですよね?
坂井「しないよ。SAには寄るけど」
−−−・・・
坂井「高速なんて、ハンドル握ってるだけじゃない!」
−−−格言ですねここまでくると。他にも写真撮りによく行かれるのですか?
坂井「近場は月に何度か行きます。」
−−−近場というと秋川とか高尾とかですか?
坂井「いや銀山温泉とか兵庫とか」
−−−全然近場じゃないんですが・・・まあ北海道や九州よりは近いのは確かですけど・・・」
坂井「銀山温泉は雪のときが、また格別なんだよ」
−−−ってことは、雪道の時期に車で山形へ・・・。
坂井「まあ、でも車で行くのはそろそろ次の車検ぐらいで辞めようかなとも思っているんだ」
−−−(安堵)さすがにきついですもんね。
坂井「いや、電車で行くと往復、酒呑めるってことに最近気づいたんだ。もちろん現地ではレンタカー借りるよ。今ETCで楽だしさ」

Favorite Book
−−−好きな作家さんとか本とかはありますか?
坂井「司馬遼太郎と藤沢周平かな?でも最近は本読んでないな」
−−−作品だと?
坂井「うーん『坂の上の雲』かな。あ、今読んでるのあった」
−−−読んでるじゃないですかぁ(笑)
坂井「藤沢周平『回天の門』読んでる。病院の待ち時間手持ち無沙汰だからね。」
−−−余すところなく人生楽しんでいらっしゃいますね。

Health
坂井「病院で思い出した。そういえば明後日健康診断だ」
−−−大丈夫ですか?今日もお酒呑まれてるみたいですが。
坂井「健康診断って、結果がよければ嬉しいけど、悪くても『この歳で不養生できてる』って思えて、それはそれで格好いいなと」
−−−めちゃめちゃポジティブですね。
坂井「酒なくてなんの己が桜かな」
−−−なるほど(笑)

Death
−−−ここまでポジティブモードだと、この話題は振りにくいのですが、一応「とむらい.com」なので・・・
坂井「なんでもどうぞ」
−−−あ、ありがとうございます。ご自身の死というのは考えたことありますか?あるいは何か準備ですとか。
坂井「うーん、ないなー。戦争中はもちろん「生きたい」としか思ってなかったし、死の準備っていっても、そんなに財産があるわけじゃないし、子供達がその辺りは好きにすればいいと思ってます。行きたいところも、まだまだあるしね。だから、死ぬまで生きる。それだけ」
−−−さすがです!質問は以上です。ありがとうございました!
坂井「ありがとうございました」
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坂井忠男(Tadao Sakai)
1915年生/福岡県出身 日本大学工学部卒業 日本無線株式会社での勤務を経て 株式会社 坂井無線研究所を設立
1985年引退後は写真撮影を主として、その活動の幅を広げている